なぜ、私は訳しながら泣いたのか ~『アリババ思想』を翻訳して

(株)第一クリエイティブ 代表取締役社長 高木美恵子            
2014年4月、アリババNY市場IPO準備を報じるニュースに世界が沸き立つ中、『馬雲内部講話』の日本語版『アリババ思想』は出版された。『アリババ思想』を一起業家である私が訳したことを誇りたい。

 私は日本生まれだが、高校卒業後中国へ留学し、北京師範大学文学部を卒業後も日本企業の社員として北京、香港、台湾に駐在。現在は故郷の静岡で小さな商社を営み、中国武術用品を日本の愛好者へ提供している。

 2012年は静岡県と浙江省の友好都市提携30周年であり、記念事業の一つとして『馬雲内部講話』の日本での発行が静岡新聞社と浙江日報グループ、紅旗出版社との間で決定された。編集者より翻訳の依頼を受け、原書を読み始めてすぐ、私は馬雲というビジネス界のスーパースターの語り口に引き込まれ、一気に読み終えた。

 もちろん馬雲氏は日本の電子商取引業界では有名だ。私もネットを通じてアリババの名前やロゴには早い段階で接していた。「世界をリードする起業家」「IT時代の寵児」である馬氏の講話は、時代最先端をひた走り、成長を続ける様を感じさせてくれた。アリババ王国はビジネスモデルを築いただけでなく、「ECのインフラを基礎から作り上げる」「中国全土に雇用機会を創出する」という偉業を今も続けているのだ。本を読み終わり、私は「すごすぎる。こんなこと出来る人いるんだ」と、ただ溜息をつくことしかできなかった。

 この本は「内部講話」であることから、語り手と聴衆は全員「アリババ人」であり、多くの情報を共有している前提で講話がなされている。翻訳している私だけが部外者なため、社内事情や当時の中国IT業界の時代背景にも疎く、日本人にもわかるように解説することは困難を極めた。まるで、登っても登っても頂上の見えない山を一人でトボトボと登っているような気持ちで、私は常に孤独だった。

 転機は突然訪れた。最終章の十周年の講話を訳し始めた時のことだ。自分でも気づかぬうちに、私の頬を涙が伝い、ぽたりぽたりと机を濡らしていた。

 規模の大小にかかわらず、自分で商売を始めたことがある人なら誰もが経験するだろう。  明日の見えない不安、従業員への責任、資金繰りのむずかしさ・・・。馬雲氏とて例外ではなく、同様の試練を乗り越えて来たのだろう。だからこそ、五周年、十周年を寿ぐ言葉には、顧客、従業員、そして取引先への感謝に満ちているのだ。超人ではなく血の通った人間である馬雲を発見し、私は深く共感した。 「創立したその日から、アリババは感謝の気持ちでいっぱいです(十周年記念講話)」、この部分を訳したときは、まるで自分の顧客、従業員、取引先語りかけているような気持ちになっていたことを、今でも鮮明に覚えている。

 馬雲氏は「今日も過酷、明日も過酷、しかし明後日は素晴らしい日が訪れる(五周年記念講話)」と言っているが、私自身も起業後「明けない夜は無い」と自分や社員を鼓舞してきた。私が感じてきたことを馬雲氏も感じて来たのだ。そう思えた時に、自分はこの本を翻訳できる。それも、馬氏の気持ちに寄り添って翻訳し、日本の読者に「アリババの思想」を紹介することができると確信したのだった。

 その瞬間、私の心は感謝と共感と決意に満たされ、思わず涙がこぼれたのだ。

 それからの翻訳作業は孤独ではなくなった。中国語の文章から馬雲氏の姿が立ち上がり、眼光鋭く、眉間にしわを寄せ、時に人差し指をピンと立てて早口に語ってくるのを感じた。私の前には馬雲氏の話を聞く日本の聴衆の姿があり、馬雲氏の言葉を送り届けるべく、指は休みなくキーボードを叩いた。これまで訳したすべての原稿を洗い直すことにも情熱を傾けた。中国人の旧友に教えを乞い、日本人には分かりにくい部分には、山の様に注釈をつけた。

 三か月の時を経て翻訳は終了。出版を待つばかりとなったのだ。

 幸い『アリババ思想』は日本で多くの人に読まれている。  多くの読者が指摘するのは、馬雲氏の言葉の多くは、日本で経営の神様と言われている松下幸之助や稲盛和夫の言葉に通じるものが多いということだ。情熱を傾け、困難を克服し、大義を以って新しい概念を作り出していこうという、普遍的な経営の真髄が、そこにあると。天命を受けて世の中を変えていく経営者には、国や文化を超えて共通するものがあるのだ。

 ならば、急速にクロスボーダーなビジネスが普及する今、日本と中国はもっと理解し合い協力できるのではないか。いや、きっとできるに違いない!

 『アリババ思想』は、日本で最も権威のある経済誌『日経ビジネス』の書評にも取り上げられた。「使命感と価値観を掲げ、チームスピリットの大切さを説く氏の姿には、日本経済成長の立役者となったリーダーたちの面影が重なる。社員に語りかける言葉の端々に生みの苦しみがにじみ、沸騰する中国の今が見えてくる。」  

 最後に、世界中のビジネスマンとこの馬雲氏の名言を共有したい。

 「今日も過酷、明日も過酷であっても、明後日には素晴らしい日が訪れます。努力し続けましょう!」。
(五周年講話)
なぜ、私は訳しながら泣いたのか ~『アリババ思想』を翻訳して

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